真田幸村(信繁)の末裔?

真田幸村の家系図を作ってみると

家系図真田幸村画像

真田幸村(正式には信繁で、幸村という名前は後世の作であり、自身も幸村と名乗ったことはないようですが、ここではわかりやすい幸村でいきます)といえば戦国時代の武将として現在でも人気のある人ですが、実はこの人の家系図も作成してみると面白いことがわかります
まず、真田幸村のお父さんは真田昌幸です。この人は関ヶ原の合戦のときに上田城に立てこもり、2千の兵力で徳川秀忠の率いる3万8千の兵をくぎ付けにして遅参させた武将として有名です。(秀忠軍の遅参については上田城攻めのせいではなく、天災により、伝令が遅れたためという説もありますが)
ではそのおじいさんは?というと小豪族から武田信玄の家臣となった真田幸隆。当時、戦国最強と言われた武田信玄が2度負けた村上義清という人物がいます。特に2度目の敗北では村上義清の重要な拠点である砥石城という城を攻めたのですが、当時の新兵器で貴重な(この時代だとまだまだ鉄砲が普及しておらず、現在価格で一丁数百万円くらいの価値があったようです)鉄砲30丁をすべて奪われ、さんざんな被害を受けて信玄自身も必死で逃げるほどで砥石崩れと言われる大敗でした。真田幸隆は武田信玄が力攻めで落とせなかったこの城で内紛を起こし、わずかな兵力で落城させた知略の武将として知られています。
そうした戦国時代の名将を父・祖父に持つ真田信繁もまた、大阪冬の陣では大阪城に真田丸という出城を築いて徳川勢をさんざん苦しめ(幸村自身は籠城ではなく、野戦を主張したようですが、淀殿らの反対でやむを得ずの次善の策として出城を築いたようですが)、さらに夏の陣では伊達正宗の部隊を打ち破り、徳川家康の本陣に三度切り込んで、家康に死を覚悟させたと伝わっています。しかし最後はもともとの兵力が不足していたため、力尽きて自害します。そしてその子供の大助(幸昌)も16歳でしたが、大阪城で豊臣秀頼に殉死しています。
ではその真田幸村の子孫はいるのでしょうか?まず、正妻は大谷吉継(この人も関ヶ原で石田三成が小早川秀秋に裏切られたときに真っ先に攻撃を受けて奮戦した人です)の娘ですが、長男の大助(幸昌)に子供はいませんでした。しかし二男の守信という人物が実はこの後、仙台にのがれ、伊達正宗の腹心として知られる片倉影綱の息子の重長に匿われていました。実はこの重長の奥さんが真田幸村の娘だったという背景があります。その後、守信は片倉性を名乗り、片倉守信として伊達家に仕えていたようです。伊達家は真田幸村ゆかりの人間を捜索する幕府に対して守信は幸村の子ではないと回答していることから、伊達家の信用を得ていた人物だったようです。この守信の系譜が現在にまで続き仙台真田家として残っているわけです。
ちなみに幸村のお兄さんの信之(元は信幸でしたが、徳川家に義理立てして父に通じる「幸」の字を改名したといわれています。)は徳川家の股肱の臣下だった本田忠勝の娘を家康の養女としたうえで奥さんとして、現在の長野県北東部にあたる松代藩の藩主となっています。こちらの家系が松代真田家です。
つまり真田幸村は大谷吉継の娘を妻に持ち、娘は片倉影綱の義理の娘になり、その次男も片倉性を継いだ。しかもお兄さんの奥さんで義理の姉は本田忠勝の娘ということで、家系図を作ると戦国時代の武将ファンにとってはかなり著名な人物が次々とでてくることになります

 


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